昭和10年(1935年)6月、21歳で合澤國之助は佐世保海兵団、練習第七分隊(160名)に四等水兵として入団した。(6月1日現役編入、6月30日入団)原籍地大分県大野郡三重町二五七。佐世保海兵団は明治36年(1903年)に設立された大日本帝国海軍の新兵訓練施設で長崎県佐世保市に位置している。海軍兵学校を卒業した士官候補生や一般入団者(水兵)を訓練する主要拠点の一つであった。
國之助の入団は徴兵とは異なり志願または特別選抜による現役編入であったと思われる。徴兵は大日本帝国が実施した徴兵制度に基づき、20歳の男子を対象に現役兵として強制的に軍に動員する制度である。毎年、地方の徴兵検査で適格と判定された者が抽選で選ばれ2~3年間の現役服務を義務付けられた。昭和10年は平時であり支那事変前のため、通常の徴兵が行われていた。徴兵なら20歳時の検査(通常春季)と抽選を経て秋季(9~10月)に召集されるのが一般的であり、21歳は通常「第一補充役」として翌年の召集を待つ立場であった。20歳時の徴兵検査で適格と判定されたが抽選で免除された後、自主的に志願して現役に編入されたと考えられる。昭和10年(1935年)といえば世界大恐慌の影響が残り農村部では失業者が増えていた。昭和11年(1936年)に2.26事件が起こっていることからも分かるように21歳で志願した背景には軍での安定した生活や家族の経済的支援を求める意図、海軍への憧れ等があったのだろう。当時の志願兵の割合は徴兵の約20%~30%(年間約2000~3000名)佐世保海兵団は志願者を積極的に受け入れ、特に農村部や沿海部の若者が志願する傾向があった。同時入団した大多数も志願者であったと思われる。
入団者は分隊に編成され、基本的な軍事訓練(射撃、操船、規律教育)を受けた。分隊は通常100~200名程度で構成され複数の分隊が同時に訓練を受けていた。
約4か月の訓練の後、同年11月15日には海軍三等水兵に昇進し同日、戦艦「金剛」乗組となった。「金剛」はイギリスの「ライオン級」を参考に設計された日本初の超弩級巡洋戦艦である。イギリスのヴィッカース社(戦艦三笠を建造した)で設計・建造され大正2年(1913年)8月竣工した。1920年代と1930年代に大規模改装が行われ、防御力と速力が向上し、近代的な戦艦に生まれ変わった。排水量26430トン、満載時36600トン、全長222m、速力27.5ノット(約51㎞/時)と当時としては高速で知られた。
國之助は「金剛」の第二主砲に配置された。第一、第二主砲塔は前部火力の中心で14インチ(356㎜)連装砲であり射程は25000mあった。その主砲が発射される際、砲塔内では急激な気圧変化、火薬の爆発と超音速で飛び出す砲弾による衝撃波で生じる爆音、振動、熱、煙が発生した。國之助は後年、その時のことを合図の後、半円状に配置された左右の赤と青のメーターが中心で交差する瞬間、砲弾が発射され大音響が響く。兵は両耳を塞ぎ、口を開けて衝撃に備えたのだと語った。
「金剛」は昭和10年12月1日、第一艦隊第二戦隊に編入され翌11年6月19日、佐世保を出港。青島(チンタオ)及び大連方面に行動し中国沿岸での示威行動や演習、警備を行った。7月4日には朝鮮半島南部の都市、釜山西方約40㎞にある鎮海軍港に入港しその後佐世保に帰着している。
記録によればその後2か月ほど鎮海防備隊付となり、「金剛」を降りているが再び「金剛」に乗り込み昭和12年7月7日に始まった支那事変では二等水兵として後方支援にあたった。昭和13年に入ると1月22日再び鎮海防備隊付となり「金剛」を降りていることから実質2年間程の艦隊勤務であった。
鎮海では普通善行章といわれる表彰を受けている。普通善行章とは大日本帝国海軍が軍人に授与する表彰の一つで、日常的な勤務態度や行動において模範的と認められた場合に与えられる勲章である。これは昇進やさらなる栄誉の基礎となり、軍人としてのキャリアにポジティブな影響を与えた。その後一等水兵に昇進した國之助は昭和14年12月1日に羅津防備隊付として朝鮮半島北東部の羅津(現在の北朝鮮羅津港付近)で防備任務に従事する。この時期は昭和14年(1939年)に起こったノモンハン事件を受けて北方防備が強化された頃で、羅津は満州国やソ連との国境地帯として戦略的重要性が増していた。特にウラジオストク(ソ連の重要軍港)とは200㎞ほどの距離であり、哨戒や情報収集の範囲内として監視対象であった。ここ羅津では火災現場から朝鮮人の子どもを救い出し表彰を受けている。また支那事変に於ける功により勲八等瑞宝章及び金百円を賜り(金百円は現在の価値で100万円程度にあたる)支那事変従軍記章も授与された。羅津での勤務は2年足らずの勤務となった。
昭和16年6月26日佐世保海兵団付となり今度は千葉県にある館山海軍砲術学校に入校する。館山海軍砲術学校は対米関係が悪化する中、南洋の島々において陸軍に頼らない防衛及び防空兵力の育成が急務となった海軍が新設した陸上砲術の実地訓練を主たる目的とした学校であった。なかでも國之助が入った普通科練習生は海兵団のなかで模範的な兵士との評価を受け、学力試験に合格した者たちであった。常時1万5千人はいたといわれる訓練生たちは「鬼の館砲」とよばれるほど日夜に分かたぬ猛訓練を受け、一人前の兵士と認められた後に、北はアリューシャン列島の島々から、南はジャワ、ニューギニア島など太平洋の戦場に「死の特訓」で学んだ高度な陸戦技術と技能を背負って赴いていったのである。
こうして昭和16年9月30日。國之助は第六根拠地隊司令部付、臨時第52警備隊付(後に第63警備隊に改変)となりマーシャル諸島マロエラップ島に派遣されたのである。任海軍三等兵曹(特殊)とあり主に実務や指揮を担当し、兵士の監督や技術的役割を担った。また「特殊」という付記は「金剛」乗組や海軍砲術学校入校を考慮すると砲術兵曹、射撃や火器管理の専門性が認められた可能性がある。
昭和16年(1941年)12月8日大東亜戦争が開戦する。この時、國之助27歳であった。マーシャル諸島は日本から約3000~4000㎞南東に位置し大東亜戦争初期の日本勢力下の南東端を構成する。米国やオーストラリアからの攻撃を阻止する前線基地であった。マロエラップはサンゴ礁が隆起して出来た島であり、最高標高は3mと海抜は低い。ココヤシが生育し砂は珊瑚の欠片でできた白砂である。気温は年間を通して30℃前後で雨季(5~11月)はスコールが発生。湿度は80~90%と高く蒸し暑い。ラグーンといわれる10~20mの浅く広い海を要し、飛行場や水上機基地として、偵察や反撃の拠点であり、真珠湾攻撃後、米国の反攻を遅らせるための防波堤となる。特にクェゼリンやエニウェトクに大型飛行場を建設し、零戦や爆撃機を配備、昭和17年(1942年)2月のウェーク島攻略、5月の珊瑚海海戦、6月のミッドウェー海戦では出撃基地として機能した。また、海軍は当初、艦隊漸減作戦を指向し太平洋の島々で米海軍の戦力を段階的に削減し、短期決戦に持ち込み早期講和を目指した。しかし、ミッドウェー海戦での敗北後、この構想は瓦解。米軍の反攻が本格化すると、海軍、大本営は絶対国防圏、いわゆるマリアナ諸島(サイパン、テニアン、グアム)からパラオ、トラックを結ぶラインを設定しマーシャル諸島はその外縁部と位置付けられ文字通り「捨て石」となった。
昭和18年ギルバート諸島のマキン、タラワ両島が玉砕。その勢いをかって、マーシャル諸島に押し寄せた米軍は昭和19年2月2日クェゼリン、ルオット、エニウェトク環礁に上陸。守備隊は玉砕した。マロエラップは米軍の上陸作戦は行われず、飛び石作戦と呼ばれる米軍の進攻によって制空、制海権は失われ、陸海合わせ4600名(海軍第63警備隊1600名)の守備隊は孤立した。補給は途絶え、以後米軍の艦砲射撃、航空爆撃の「練習地」としての標的となっていく。
以降マロエラップでは医薬品、食料が欠乏し、多くの兵士が疫病、栄養失調に苦しめられ、米軍による降伏勧告が続いた。しかし終戦まで同島を確保した。公式記録では具体数は不明だが2050人が犠牲になったといわれる。昭和20年9月6日、日本軍守備隊は米軍との間で降伏文書に調印した。國之助は11月初旬、内地帰還のため空母「鳳翔」に乗船し復員した。最終階級は海軍兵曹長(昭和20年5月1日)同11月13日予備役編入となった。軍歴として戦艦「金剛」に2年、朝鮮半島に3年、太平洋マーシャル諸島マロエラップ島に4年いたことになる。戦後、「金剛」や朝鮮での話はしたが、マロエラップでの話を語ることはなかったようである。
昭和22年3月10日旧姓・小野智恵子と結婚。5男1女をもうけた。そして昭和37年12月4日永眠。48歳の生涯であった。
祖父 合澤國之助


この記事へのコメントはありません。