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多文化共生という名のもとの移民政策について

日本の在留外国人が428万人(2026.6)過去最高に達したというニュースが入りました。この半年で15万人増加、年間で30万人の増加ペースです。町を歩けば、アジア系の外国人の方が自転車にのっている光景が当たり前のようになりました。一方で外国人住民が増加する中、日本人の人口は1億2000万人を切り1億1913万人(2026.1)となり年間で約100万人減って行っている状況です。これは出生数が67万人、死亡数が158万人(2025)という少子高齢化がハイペースで進んでいる背景で労働力としての外国人受け入れを進める日本列島を強く豊かにする国策が招いた当然の結果なのでしょう。まさに日本人入れ替え大作戦が進行中なのです。そしてその受け入れを前提として全国の自治体は多文化共生というオブラートに包んだ施策を始めています。具体的には生活支援、日本語教育、外国にルーツを持つ子供への学習支援、就労支援、地域交流など多岐にわたります。ここで一つ問題提起するなら、労働力としての外国人受け入れは雇用先の企業がどこまでそのコストを負っているのか、そのコストを国民、市民が負っているのならそれはどこまでが許容できる範囲なのかという検証、考察が必要です。そしてその外国人はかつて中国人が主であったものが、ベトナムに変わり、インドネシアに変わり、やがて中東へ、アフリカへとまるで安い労働力としての外国人を使い捨てるかのように移り変わっていっているのです。

このような持続可能でない、言葉は悪いが「奴隷制」のような方法で移民を受け入れなければ成り立たない日本社会の歪な構造はおかしいと思いませんか。本当に多文化共生というなら、受け入れた国との交渉をして日本で働いてくれたらその分の年金を母国に帰っても受け取れるような制度を相手国と取り交わし、彼らに敬意を持って受け入れなければ日本はやがて彼らを使っているようで使い捨てられる国となるでしょう。日本人ファーストは日本人を大切にしますが、それは裏を返せばその日本を支えてくれる外国人にも敬意をもって接し受け入れようというものではないでしょうか。そういう視点から我々はこの多文化共生という施策に向き合っていく必要があるでしょう。

コメント

    • 細名雅彦
    • 2026年 10月 20日 1:21am

    自論に過ぎませんが。
    「多文化共生」というと、それ自体が身勝手な意味を持つ左派的な概念という感覚でいました。発祥を調べてみたら、大まかに正解でした。元々は在日外国人が自分たちの都合を訴えるために作った和製造語だったようです。当時の社会背景からして訴えたくなる現状があったとは思われますが、現代では自民党など保守側も、社会・共産側の政党も使っており、全くおかしな話だと思います。その言葉(単語)の意味を単独で調べると「良い意味」のように書かれており、それもまた誤解を招いてしまう要因です。世界的には理解できる意味かもしれませんが、我々の日本のように古代から単一文化の国には合わない、ということを広めてほしいものです。
    移民問題以前に、国語や社会地理など文学的・学術的な意味からもおかしいと思います。
    では、「多文化共存」ならどうでしょうか。この言葉なら意味的にも、世界単位・国単位のどちらで当てはめても問題がないと思われます。しかし現実には「異文化だからこそ摩擦が生じ、戦争になるのも仕方がない」と解釈するのが実態ではないでしょうか。
    「異文化吸収型の単一文化」だった日本で、「多文化共存」を飛び越えて「多文化共生」を政府自ら推進している。
    少子高齢化や人口減少が顕著になる前から、その言葉の概念を履き違えていたのか、あるいは故意に取り入れたのかはわかりませんが、当時の政府に問題があります。そして今日までそれを継続し、ましてや移民問題と労働者雇用問題までをごちゃ混ぜにしている点に、今の政府の悪質さを強く感じてしまいます。

      • atsushi
      • 2026年 10月 20日 1:59am

      細名様、コメントありがとうございます。
      確かに多文化共生という言葉の響きに何か良いものというイメージを抱きます。そしてある意味それに異論を認めないというメッセージであるのかもしれません。移民政策というとにわかに現実見を帯びてきて肌感覚で異文化との接触を想像するようになります。物は言いよう。つまり印象を操作して真実を覆い隠す意図を私も感じます。細名様のおっしゃるとおり、多文化を吸収し日本的に再解釈してきたわが国の歴史を鑑みれば、共生という言葉がいかに危険であるかに気づかなければなりませんね。

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