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最後の特攻隊について~寺司勝次郎とその時代

私の手元に瓦を描いた版画の絵葉書と名刺があります。その名前には寺司勝次郎と記されています。父が営んでいた割烹料理店でお客としてよく来られていた方でした。寺司さんは三ケ田町に住み版画家として活躍されましたが、彼にはもう一つのライフワークがありました。それは同時代を生きた者として最後の特攻隊について調べていたことです。皆さんはご存じでしょうか。昭和20年8月15日最後の特攻隊がこの大分の地から飛び立って行ったことを。

昭和20年8月15日大分海軍航空基地より宇垣纒(まとめ)長官以下23名が11機の彗星艦上爆撃機に搭乗し沖縄に出撃していきました。滑走路から別府湾の方向に次々と飛び立って行く姿を近くの花津留部落の人たちは見送り、日の丸の旗を振り「万歳、万歳」と声を上げながら泣いている老人や娘がいたそうです。高城のエンジン工場の工員たちは終戦を告げられ皆泣きながら歩いていました。大分駅からは海が見えて合同新聞社も焼け落ち野津原に疎開していた頃です。その最後の宇垣長官の訓示の場所(大洲総合運動公園内)に立つと長官が山本五十六元帥より拝領した短刀を掲げ居並ぶ隊員たちが「わー」と歓声を上げた情景が目に浮かぶようでした。中津留達雄大尉は自分の機が不調であるのを知っていて川野良介中尉と機体を交換してほしいと言いました。そして川野中尉の機は宮崎上空で機体からガソリンが噴出し志布志湾に不時着します。

宇垣纒長官を乗せた中津留大尉機は通常2名であるのに偵察通信員である遠藤秋章(あきあきら)飛曹長が降機を拒否し後席に宇垣長官と二人で乗り込んでいきました。その最期には諸説あります。私が看護学生の頃、実習で担当させてもらったご老人がこの最後の特攻隊を見送ったという話をされていました。話には聞いていたのですが大変驚いた記憶があります。皆どこかでつながっているのです。先日、東京に行った折り靖国神社の英霊の言の葉という冊子に宇垣纒中将の訣別の無電を見つけ、これをモールス信号に戻して聞いてみました。すると彼らがまだ生きているような錯覚に陥るのです。本当に歴史を知るとは彼らの人生を思い想像することではないでしょうか。そして寺司さんのように時代は移り変わり喧噪な世の中にあってなお彼らのことを見つめていた方々の思いがあったからこそ歴史は語り継がれていくのではないでしょうか。

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