前回多文化共生について我々は日本で働いてくれる外国人に来てくれるからには敬意を持って受け入れなければならないし例えば年金を相手国と相互に連携して母国に帰っても受け取れるような仕組みを整えなければ本当の意味での多文化共生ではないし日本を好きになり日本をよくしてくれたことに対する礼儀ではないということをお伝えしましたが、一定数を超える外国人が増えることに対し懸念を感じることについて一つの仮説をもとにその可能性も含めてお話してみたいと思います。
私たちが参考にするのがヨーロッパでの移民政策の状況です。ヨーロッパ連合(EU)全体の「外国生まれの住民」の割合は平均14%に達しています。ドイツ19.8%、フランス13.8%、スペイン19.0%、ルクセンブルク52%、一方ポーランドは伝統的な自国の文化やキリスト教的価値観、治安の維持を最優先とし物理的、政治的に受け入れを拒否し続けて5%未満に留まっています。
そして問題はフランスでは「ゲットー」という校外の公営住宅地区(バンリューともいう)に移民隔離地区として住み分けを行ったりしているのです。すなわちユダヤ人隔離政策であったゲットーの記憶を呼び覚ますような現実が21世紀にもしっかりと息づいているのです。ヒトラーを批判してきたフランスが恥じることなくこのような政策を行っている。これが現実であるのです。自由、平等、博愛という理念すらこのような現実の前には無力であることを彼らは思い知らされたのではないでしょうか。
私が朝、辻立ちをしている時、外国人の方にご挨拶しました。その時その外国人の方は笑顔で「おはようございます」と返してくれました。そういう時に私は思います。日本に来てくれた外国人には日本を好きになってほしい。もしかしたら、ヨーロッパにおける移民の現状はヨーロッパという人民の民度の写し鏡なのかもしれないと思うことがあります。フランス人が、ドイツ人が外国人に対し、移民に対し奴隷か何かのような扱いをした結果、隔離し、スラム化し、治安が悪化しているのかもしれない。その可能性は十分にある。そして今の日本の移民政策はそれを踏襲しようとするかのように進んでいる。日本の場合は民度が違うと信じたいしそうであってほしい。しかし政治的判断としてかもしれないにかけることの危うさを政治家はしっかりと認識してほしい。
個々の日本人のポテンシャル頼みの政治はやめて政治家がなすべき判断の重みを考えれば外国人総量規制に踏み込むのは賢明な判断であるしそれをしない政治家はなんら信用に値しないと私は考えます。


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