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読書について

数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。
読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。・・・ほとんどの思想は、思索の結果、その思想にたどりついた人にとってのみ価値をもつ。・・・しかしそういう場合でも真に価値があるのは、一人の思想家が第一に自分自身のために思索した思想だけである。つまり一般に思想家を、第一に自分のために思索する者と、いきなり他人のために思索する者との二つに分類することができるが、第一のタイプに入る人々が真の思想家であり、二重のいみで自ら思索する者である。それは彼らが真の哲学者、知を愛する者だからである。
第二のタイプの思想家はソフィストである。彼らは世間から思想家であると思われることを念願し、名声の中に幸福を求める。さて一人の思想家がこの二つのタイプのいずれに属するかはその挙措動作をくまなく見ればただちに明らかである・・。ショウペンハウエル(1788-1860)

  もちろんわたしは「読むこと」を、いわゆる「インテリゲンツィア」の大部分のものとは、おそらくいくらか違ったものとして理解しているのである。
際限もなく多く「読む」人、一冊一冊、一字一字読む人々を、わたしは知っている。けれどもわたしはかれらを「博識」ということはできない。かれらはもちろん多量の「知識」をもっている。だがかれらの頭脳は、自分に取り入れたこの材料を分類したり整理したりすることを知らない。かれらには本の中から自分にとって価値あるものと価値なきものを選別する技術が欠けている・・・運命がそのように博識家であるが無能力者を国家の指導者に任命したらば、さらに悪くなる。
わたしは若い時からずっと、正しく読むことに努力してきた。・・・日々の生活経験は、いろいろの問題をつねに新しく研究しようとする刺激になった。ついには現実を理論的に基礎づけ、理論を実際で試そうという姿勢をとったためわたしは、理論の中で窒息してしまったり、現実の中で希薄化されたりすることからまぬがれたのである・・・。アドルフ・ヒトラー(1889~1945)

書は文字ではない。人である。そう吉田松陰は言いました。そうであるなら多くの人と出会ったからといって多くの人を知っているからといってその人の価値が高まる訳でもなく、まして社会にとって有益ではないようにその出会いによって己がどう変わったか何を生きる指針とするようになったかが大切ではないでしょうか。たった一人との出会いがその人の人生を大きく転回させることもある。書、本も同じであると私は思います。民主主義を訴え奴隷解放を成し遂げたエイブラハム・リンカーンは聖書を繰り返し読んでいたといいます。誰にでも人生に決定的な影響を与える本という「人」がいるはずです。私が感銘を受けた書があるならヴィクトール・エミール・フランクルの『夜と霧』『それでも人生にイエスと言う』という書でしょう。これはまさに先に上げたアドルフ・ヒトラーによって迫害を受けた一ユダヤ人がその体験(強制収容所)から生み出した人生哲学とでもいうような書です。彼の静謐な書からは誰かを恨むとか憎むとかではない、もっと人間の根源的な問い、生きるとは何かというものへの人としての誠実な回答しかくみ取れないのです。私はまずそこに衝撃を受けました。そして彼の紡ぐ言葉がそういう背景であればこそ真っ当な言葉として受け入れざるを得ないのです。読書は知識を得るためだけのものではありません。そこで自分の生き方に照らしてこそ意味がある。皆さんもそのような「人」と出会える日を楽しみに読書をしてみてはいかがでしょうか。

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